時間経過の変化、その理由と支配。
2021-12-11(noteからの移行記事)
12月になってしまった。しかもこれを書いている時点でその3分の1がもう過ぎてしまっている。今年は20歳になる、ある意味節目となる年だったこともあっただろうか、非常に濃い1年間であったように感じる。まさにエスプレッソだった。
濃い期間を過ごすと、より時間経過がはやくなる。退屈な野球場での受付のバイトの3時間は無限に続くような気がした。その逆である。動けば光速に近づくから、相対性理論的な意味で時間の経過が歪むのだろうか。はたまた、ただ没頭することで脳が麻痺してしまうのだろうか。
ところで私は何方かと言えば、予定を詰め込みたいタイプだ。たまには何もしない休日を過ごすのも良いのだが、大抵夕方あたりで心が疼き出す。いいのか?お前は今日一切前に進んでいないぞ?そうやって疼き出す。そうして動き出す。
まあ、動き出すと言っても世間にとって生産的な事は何もしていない。読書・映画鑑賞・音楽鑑賞・ギター・ゲーム、などなど。しかし人生はいかにカルチャーを享受していくかが重要であると考える私にとっては、これは十分生産的活動なのである。
ここで1つの悩み事が生じてくる。時間が圧倒的に足りない。
読みたい本・観たかった映画・聴き込みたいアーティスト・音楽理論の勉強・クリアしていないゲーム、などなど。享受したいカルチャーが多すぎる。特に今年は自分の興味関心がさらに広がってしまったため、このままでは収拾がつかない。
ここから1つの結論に達した。それは、時間経過の変化は相対性理論でも脳の麻痺にでもなく、行動量のバランスに依存している、というものである。私のバイトの事例で言えば、試合開始と同時に受付の行動量は0に限りなく近づくにも関わらず、時間は同じように流れていく。全くもって釣り合っていない。退屈なはずである。
よく考えなくても、これは当たり前のことを言っているに過ぎないことはわかる。しかし時間経過を支配するためには、このことを再認識しなければならない。なあなあにしていると、それこそ何も満足にできないまま、時間に置いていかれるだろう。
これを支配するにあたって、12月というのは非常に都合が良い。なぜなら節目の時期であり、大掃除をするにはもってこいであるからだ。なおここでの大掃除は、物理的なものではなく、興味関心などの精神的な大掃除である。
ここからは私なりの精神的大掃除の方法を簡単に説明しよう。とにかくまずは紙に書き出すなり、頭に思い浮かべるなりして自分の興味関心がどこに向いていて、そしてどれだけの熱量があり、それにはどれだけの行動量が必要かを整理する。そうして次に、自分が自由に使える時間と、それを天秤に掛けるのである。最も苦労する作業は、まさにここであると言える。時間は有限であるが、それに対して、人の興味関心は止まる所を知らない、無限であるためだ。
ここでのポイントは、いかにバランス良く整理していくかである。殆どの人間には1つの事柄を満足に極める時間すら残されていないことを理解しなければならない。多くの場合、他の興味関心に使用する時間が失われてしまうだけでなく、拘泥している1つの事柄にすら満足できない事態となってしまうのである。
バランスをいかに整えていくか、こここそが腕の見せ所である。アイデンティティの形成を能動的に行う活動と捉えることもできる。本当にやりたい事を、いかに抽出していくか。自分なりの興味関心のガイドブックを作るような感覚で取り組むのも良いかもしれない。
そうして精神的大掃除を行う事で、自分の行動はより洗練される。これこそが時間経過の支配なのである。ああ、気がついたらこんなに時間が経っていた、まだ何もできていないのに、そう思わずに済むのだ。
そういえば、エスプレッソは短時間でコーヒー粉に高い圧力をかけるため、通常のコーヒーよりも効率よく抽出することができるらしい。旨味が濃縮されているそうだ。まさに精神的大掃除も、圧力を掛ける活動に他ならない。人生の旨みを凝縮。いい響きじゃありませんか。
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